遠山氏の歴史
名君?暴君?伝説の彼方に息づく戦国の武将
戦国時代から江戸時代初期にかけて、 遠山谷は遠山氏と呼ばれる地方豪族に支配されていました。
遠山一族は現在でも各集落の神社に祀られ、霜月祭りにも登場します。
遠山郷ではあちこちに一族にまつわる伝承が多く残され、村人の畏敬の対象となっています。 では、遠山氏とはどのような一族だったのでしょうか。
遠山氏土着の歴史
遠山氏の初代は、武田信玄・勝頼父子に仕えた遠山遠江守景広という人物であるとされていますが、そもそも遠山氏がこの地方にいつごろ土着したかは定かでありません。
地元には、藤原氏の末裔である加藤次景廉(ただかね)という人物が、源頼朝から信州遠山庄の地頭に任じられ、移り住んだという伝承があります。
この伝承はどうやら史実ではなさそうですが、鎌倉時代末期の古文書に、信州遠山に地頭がいたことが明記されており、室町時代の応永7年(1400)に信州で勃発した大塔合戦にも「遠山出羽守」なる人物が参戦していることが明らかになっています。
静岡県水窪町には、遠山氏の遺品であるという素焼の壷が伝えられており、これには鎌倉時代初期にあたる承元2年(1208)の年号が刻まれています。
遠山郷の神社の多くは「鎌倉正八幡社」と号しており、多くの系図や伝承でも、遠山氏の先祖は鎌倉からやってきたと伝えています。
こうしたことから、遠山氏は早ければ鎌倉時代、遅くとも室町時代にはこの地に住み、周辺の地方豪族たちと対等に渡り合っていたと想像できます。
そして戦国時代に入り、遠山氏は歴史の表舞台に登場してくるのです。
遠山氏年表
承元2年(1208) | 遠山氏家宝と伝わる壷に年号有り。 |
---|---|
嘉暦4年(1329) | 諏訪上社の文書に信州遠山氏の名が登場。 |
応永7年(1400) | 遠山出羽守なる人物が大塔合戦に出陣。 |
文明(1469~1486)の頃 | 信州遠山新九郎政志の娘が柴田義勝に嫁ぐ。 (※注1) |
天文22年(1552) | 遠山孫次郎(遠江守景広)、武田信玄に服属。 |
天文23年(1553) | 信玄、下伊那に侵攻。 |
永禄12年(1569) | 遠山氏、遠州奥山氏を攻め高根城を陥落(元亀2年とも)。 |
天正3年(1575) | 遠江守景広、長篠合戦に出陣。 |
天正10年(1582) | 遠山遠江守景広ほか、高遠城で討死。 |
天正13年(1585) | 遠山氏(土佐守景直)、家康軍に加わり上田に出陣。 |
慶長初年(1596頃) | 土佐守景直、岡崎にて家康に謁見、領土を安堵される。 |
慶長19年(1614) | 遠山氏、大阪冬の陣に出陣。枚方の水駅を守備。 |
元和元年(1615) | 遠山氏、大阪夏の陣に出陣。同年9月、土佐守景直没。 |
元和2年(1616) | 遠山騒動勃発という(『伊那温知集』)。 |
元和3年(1617) | 加兵衛景重没。相続争い始まる。 |
元和4年(1618) | 遠山氏領土没収、代官千村平右衛門の預かりとなる。 |
元和8年(1622) | 新助景道、大河原で討死という(石子詰事件)。 |
寛永10年(1633) | 長九郎景盛、遠州浦川で病死。 |
初代 遠山遠江守景広
父親は蔵人正直という人物であると伝えられ、この正直が遠山に移り住んだという伝承もあります。
その子景広は、初め長山城(名古山)に住んでいましたが、勢力拡大にともない和田盛平山に居城を移しました。
神峰城(飯田市上久堅)の知久氏や吉岡城(下伊那郡下條村)の下条氏とは同盟関係を結び、一方で新野(下伊那郡阿南町)の関氏とは対立しました。
武田信玄が下伊那に進入する前年の天文22年(1553)、遠山氏は遠州の天野氏を介して武田信玄の配下に下りました。
以降、信玄vs家康の三方原合戦や、勝頼vs織田徳川連合軍の長篠合戦にも、武田方として参加しました。
こうした戦乱に乗じて景広は、それまで姻戚関係を結んでいた遠州奥山氏を攻め、久頭合城(高根城)などを陥落させました。 (※注2)
天正10年(1582)、織田軍が甲斐・信濃攻略のために進軍を開始すると、遠山景広はそれに対抗するため、勝頼の弟仁科五郎盛信が守る高遠城にかけつけ、篭城に加わりました。
しかし高遠城は落城し、景広は一族8名、郎党140名とともに討死を遂げました (※注3) 。
※1…静岡県佐久間町浦川にある遠山長九郎景盛の墓碑銘。柴田義勝は柴田勝家の父親と目される人物です。
※2…静岡県水窪町には、このとき追手から逃れようとして命を落とした奥山氏の奥方「おかわ様」の悲劇が語り伝えられています。また地元水窪町では、城を陥落させたのは土佐守景直であると伝えられていますが、『熊谷家伝記』などの記録に従う限り、当時彼はまだ生まれていません。土佐守景直の誕生は天正元年(1573)と推測されています。
※3…一説には、景広は鎌倉に逃走して客死したとも伝えられます。
※4…一説には、鹿塩・大河原(現大鹿村)、大草(現中川村)なども知行地として、合計3500石に上ったともいわれます。
二代 遠山土佐守景直
武田氏の衰退後、下伊那地方は織田氏、ついで徳川氏の支配下に入りました。
天正13年(1585)、上田城の真田昌幸が家康に抵抗した際、土佐守景直は下伊那の諸侯とともに家康側として出陣しました。
戦は家康が敗北しましたが、その時の功が認められ、景直は慶長初年(1596頃)に岡崎城内で家康に謁見を許され、領地の安堵を得ました。
このとき景直は、先祖伝来の遠山六ヶ村(現在の上村、南信濃村、そして天龍村の一部)の領有を認められたほか、飯米料として箕輪(現箕輪町)、福島(現伊那市)、赤穂(現駒ヶ根市)、福与・部奈(現松川町)からあわせて3000石を与えられました。 (※注4)
いずれにせよ、この景直の代になって遠山氏は過去最大の領土を得、全盛期を迎えることになりました。彼は領民にも慕われ、様々な逸話が伝承されています。
土佐守景直が家康に謁見した際、家康から食事を賜りました。
そのとき土佐守は左手で茶碗を隠しながら食事をし、食べ終わってから茶碗の上に箸を渡して置きました(いわゆる「渡し箸」です)。
家康がその作法を不審に思って訳を尋ねると、土佐守は 「遠山は貧しい山国で米がとれないために、身分の上下を問わず麦や粟を常食としています。
よって尊い方の前で食事をするときは、恥じて隠しながら食べるのが習慣になっているのです」 と答えました。
家康はこれを聞いて気の毒がり、上穂(現駒ヶ根市)1000石を加増し、箸を茶碗の上に置いた形を家紋とするように沙汰したということです。
- 家康に謁見する土佐守の像
- (遠山氏家紋)
また、次のような話もあります。
土佐守が江戸に詰めていたときのこと、仲間の大名らが 「信州遠山には栗の実が多くあって、焼き栗というものを食べているそうですな。
景直殿もみずから栗をお焼きになるのですか」 とからかいました。
すると土佐守は、 「いかにも、私は栗を焼く名人です。焼き栗は味もさることながら、焼けるときのいさぎよさが格別です」 と答えました。
「ぜひ焼くところを見物したいものですな」 と仲間たちが言うと、 「お安い御用です」 と、土佐守は遠山に飛脚を走らせて生栗を取り寄せました。
そして座敷に仲間衆を呼び集めると、自らは鎧兜に身を固めて勇ましく登場し、7~8升もの栗を大火鉢に放り込んで、手槍で突きたてました。
すると、栗は雷が落ちたかと思うほどの轟音を立ててはじけました。
見物していた仲間衆は真っ青になって、耳を押さえて庭に転げ出、みな慌てて逃げ帰ったということです。(『熊谷家伝記』四之巻)
このように機略にあふれた土佐守は領民にも親しまれ、現在でも地元で「遠山様」といえばこの土佐守をさすほどです。
土佐守は大阪冬の陣、夏の陣にも出陣して功をあげ、元和元年(1615)に和田城にて没しました。
三代 遠山加(嘉)兵衛景重
景直の後に遠山家を継いだのはその長男の加兵衛景重でしたが、生まれつき病弱で元和3年(1617)に病死してしまいます。伝説の上でも影が薄く、地元では「若殿様」などと呼ばれています。
加兵衛には男の子が生まれなかったため、飯田藩の家臣、二木勘右衛門の次男小平次を養子に迎えていました。けれど加兵衛が遺書を残しておかなかったために、加兵衛の弟、長九郎景盛と小平次との間に相続争いが起こりました。
公儀の裁決によって小平次が800石、長九郎が500石をそれぞれ相続するよう沙汰がありましたが、長九郎側が納得せず、その争いは領民にまで及びました。
そこで幕府は遠山家の領地をすべて没収し、天領として代官預かりにしてしまいました。これにより、遠山氏はあっけなく滅んでしまったのです。
この急激な没落の背景には、徳川幕府の策略があったのではないか、という学者の指摘もあります。
遠山谷は森林資源の宝庫でした。そうした場所に、古くからの勢力である遠山氏を定住させておくのは危険であると判断した幕府が、遠山氏の相続問題に便乗して遠山氏を取り潰したのではないかという説です。
- 龍淵寺に残る遠山一族の墓
遠山氏の伝説
遠山氏の滅亡については、相続争いをその原因とするのが歴史学者の定説となっていますが、地元では少々異なる伝説が語られています。
遠山騒動
遠山土佐守景直は郷民から厳しく年貢を取り立てる暴君であり、圧政に耐えかねた農民たちが一揆を起こして遠山氏を滅ぼした、というのが「遠山騒動」です。これが「遠山騒動」と呼ばれるものです。
圧政に耐えかねた郷民たちは密議を重ね、満島の折立寺の住職長老に、遠山氏の暴政を公儀へ直訴してもらうことに決定しました。
直訴は成功し、遠山氏は領地を没収されましたが、遠山氏の恨みを買った折立長老は南和田の飯島地籍で遠山氏に襲われて重傷を負いました。
そのことに怒った郷民たちが暴徒と化し、和田城を攻めて遠山一族を滅亡に追い込んだのです (※注1) 。
初代 遠山遠江守景広
また、遠山騒動に関しては、次のようなエピソードも伝わっています。
遠山様の石子詰
土佐守景直の弟で木沢に住んでいた遠山新助景道は、弓矢で鍬8枚を突き通すほどの強力で、また面白半分に観音堂を大鉄砲で撃ち壊すほどの狼藉者でした。
病弱な加兵衛景重に代わって江戸に参勤していた新助は、遠山一族断絶の知らせを聞き、元和8年(1622)、帰郷するために大河原にさしかかりました。
農民たちは道筋で新助を待ち伏せし、崖から石を落とし、竹槍で突いて殺してしまいました。
その後新助の怨霊が祟りをなしたために、大河原と鹿塩ではその霊を遠山八幡社として祀るようになりました。
- 遠山八幡社のある松香寺
- 霜月祭りに登場する遠山様の面
このように、遠山一族は村人の誇りや敬愛の対象であると同時に、畏怖の対象でもあったのです。
現在に伝わる遠山霜月祭りは、このとき滅んだ遠山一族の霊を慰めるために始められたという言い伝えもあり、そのために 霜月祭り には「死霊祭り」の別名があるほどです。
こうした伝承は、遠山氏に対する村民の複雑な意識の表れなのかもしれません。
このように機略にあふれた土佐守は領民にも親しまれ、現在でも地元で「遠山様」といえばこの土佐守をさすほどです。
土佐守は大阪冬の陣、夏の陣にも出陣して功をあげ、元和元年(1615)に和田城にて没しました。
遠山氏にまつわる伝説
スリド
和田から東南に向かい、梶谷に通じる山道を登りつめた高町という場所に小さな祠があります。かつてここには鏡が祀られていたそうです。遠山氏が没落するときにその愛妾が逃げてきて、この峠で郷民に殺されたのだといいます。
千人塚
和田尾の島にあった塚で、もとは遠山氏の御仕置場だったと伝えられていますが、現在では失われています。
狼煙台跡
八重河内尾野島八幡社の東南の山腹にささやかな平地があります。ここはかつて遠山氏の狼煙台があった場所と伝えられています。
便ヶ島(たよりがしま)
遠山郷 便ヶ島の写真便ヶ島(現在ではキャンプ場) 木沢の上島トンネルから本谷川(遠山川の本流)に沿って車で1時間ほど遡ると、聖岳登山口の駐車場があります。ここを便ヶ島と呼んでいます。
遠山氏が滅びたとき、土佐守の奥方は12人の侍女とともに落ち延び、道に迷ったあげくにこの場所にたどり着きました。奥方が、城や親しい人たちの身の上を案じて何度も手紙をしたためたことから、便ヶ島の名がつきました。
また一説には、遠山氏の姫君がここに落ち延び、かねてより恋仲だった若侍の安否を尋ねて、恋の便りを幾度となく侍者に託したのだともいわれています。
また、この場所は農民たちが一揆のための密議を凝らした場所で、一揆に加わる者たちの名を石に刻みこんだともいわれています。けれどその石がどこにあるのかは定かでありません。
待合(まちや)
便ヶ島の手前、須沢集落にある地名で、農民たちは便ヶ島へ密議に向かう途中、この場所で待ち合わせたのだといいます。 また、遠山氏滅亡の際、農民たちが落人を待ち伏せしたのだともいわれます。
河合
木沢にある地名。この地に逃れてきた遠山土佐守の姫君を村の者(木下家)が助け、狭い忌部屋にかくまいました。
隠れている間、姫君は藤糸をつむぎました。
かくまわれて七日目、姫は 「一揆も大分鎮まったようなので、これから美濃苗木の親戚の許に行こうと思います。ついては、この藤糸をせめてものお礼といたします。また、この家の女性は代々美人になるでしょう」 と言い、名残を惜しみながら立ち去ったということです。
御園の愛宕様
遠山郷 御園の愛宕様の写真御園の愛宕様 木沢八幡社の裏手に小さな祠があります。遠山氏の若殿が農民に殺され、従者がその遺骸を具足、刀などとともにこの場所に埋葬し、手頃な丸石を墓標として立ち去りました。
土地の主がその上に祠を東向きに建てて祀ったところ、一夜たってみると祠が南向きに変わっていました。何度直しても祠は南を向いてしまうため、これは遠山様を祀る木沢八幡社を慕って向きを変えるのだろうといわれるようになりました。
遠山様の踏み石
遠山郷 遠山様の踏み石の写真 木沢の百体庚申のそばにあります。遠山新助景道がこの場所から北方の居城、中根城に向かって弓を試し、そのとき足をかけた石に沓跡が残ったといわれています。
二升四合升
遠山郷のいくつかの旧家には、二升四合も入るという大きな升が残されています (※注2) 遠山氏はこの升を一升として年貢を取りたてたため、農民の怒りを招いたと伝えられています。その真偽はさておき、遠山独自の規格の升が存在することは、遠山氏が地域色に富んだ民政を施していた証拠とも考えられます。
的場(上村)
上村の風折集落の西に、上村川を見下ろす平地があります。ここは土佐守が江戸往復の途中、弓を引いた的場の跡だと伝えられています。
殿原神社(上村)
上村下中郷の東方の山中にあって、戦死した遠山氏の落武者を祀っています。そばに一杯水という清水があり、土佐守がこの場所で「水が欲しい」と言って木の枝を突くと、たちまち水が湧き出したと伝えられています。
足神(泰阜村)
泰阜村田本にある祠。遠山氏没落の際、奥方がこの地まで落ち延びてきて、足を傷めました。
哀れんだ村人が介抱してやると、奥方は喜んで 「今後足を病む者がいれば、必ず治して進ぜましょう」 と言い残して立ち去りました。
この祠に参れば、足にまつわる病気全てに霊験があるといわれています。
切石(継石塔)(泰阜村)
泰阜村温田にある石。遠山氏の落人がこの場所で追手と斬り合いをし、そのときに石に切りつけたといわれています。落人はその場で命を落とし、村人が供養のために石塔を建立しました。
白諏神社の名剣(松川町)
松川町生田の峠集落には、村社白諏神社に「青蛇丸(あおろじまる)」という名剣が伝えられています。
『生田村史』によれば、昔、遠山土佐守藤原友徳なる武将がこの神社に参詣し、社前の霊水を頂いて休んでいると、急に天が曇り、雷光雷鳴とともに豪雨が降ってきました。そして木の枝に掛けておいた刀が二匹の蛇と化し、友徳を睨みました。
友徳は、これは部下が霊水を汚した神の怒りに違いないと覚り、部下に社前で陳謝させたところ、雨はやんで蛇も元の刀に戻りました。
友徳はあらためて社前に詣で、武運長久と自家の繁栄を祈願して件の刀二振を神社に奉納したということです。
この神社がある峠集落は、大河原で石子詰の難を逃れた遠山氏の落人が唐沢姓を名乗って切り開いた土地だといわれています。
姫宮(上伊那郡中川村)
姫宮(上伊那郡中川村)の写真中川村葛島には大きな5本の杉に囲まれた祠があり、姫宮と呼ばれています。遠山氏没落の際、姫君がこの地まで逃れてきて亡くなったのを祀ったものといわれています。昭和初めまでは、祠の中に数枚の鏡や古銭が納められていたそうです。
守屋家の壷(静岡県水窪町)
水窪町草木の守屋家には、遠山氏ゆかりの品々が多く伝えられています。
遠山氏没落の際、土佐守の奥方の小高姫は二人の家臣を連れて兵越峠を抜け、草木の守屋家に身を寄せたままこの世を去りました。
このとき奥方が持参したのは、素焼の壷(前述)、轡、刀、火縄銃、鏡などでした。
壷には「山王七社内 承元二年六月」と刻まれていることから、これは遠山氏が鎌倉から持ち伝えた家伝の神器ではないかと想像されます。
竜の玉(静岡県水窪町)
水窪町向市場の善往寺に伝えられている大小二つの石。この玉を天に捧げて祈ると、晴天時ならば曇り、雨天時ならば晴れるといいます。
これはもと遠山土佐守が祀る宝で、その子孫である桐山家が寺に寄進したものであると伝えられています。
石の霊験はともかく、その石質が遠山地方に産出するものであることから、この地方と遠山氏との関係を語るひとつの資料であることは確かなようです。
二本杉(静岡県佐久間町)
家康に謁見した土佐守が本国に帰る途中、峠で昼食をとりました。そのとき持っていた箸を地に突き立て、戯れに箸に向かって 「我が立身するか、汝が立身するか」 と問いかけて立ち去りました。
その後ほどなく土佐守は世を去って一族も滅びましたが、一方の箸は根を張り、枝を広げて二本の杉の大木になりました。
この二本杉は明治元年に伐採されましたが、あまりに大きいために根元から切り倒すことができず、足場を作って梢から順に切り取らなければならないほどだったということです。
※1…天龍村に伝わる伝承では、折立長老の直訴は事前に遠山氏に漏れ、長老は殺されてしまいました。そのことが郷民の怒りを爆発させ、一揆につながったともいわれています。
※2…実際に入る量は二升二合弱らしいです。
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