遠山氏の伝説
遠山氏の伝説
遠山氏の滅亡については、相続争いをその原因とするのが歴史学者の定説となっていますが、地元では少々異なる伝説が語られています。
遠山騒動
遠山土佐守景直は郷民から厳しく年貢を取り立てる暴君であり、圧政に耐えかねた農民たちが一揆を起こして遠山氏を滅ぼした、というのが「遠山騒動」です。これが「遠山騒動」と呼ばれるものです。
圧政に耐えかねた郷民たちは密議を重ね、満島の折立寺の住職長老に、遠山氏の暴政を公儀へ直訴してもらうことに決定しました。
直訴は成功し、遠山氏は領地を没収されましたが、遠山氏の恨みを買った折立長老は南和田の飯島地籍で遠山氏に襲われて重傷を負いました。
そのことに怒った郷民たちが暴徒と化し、和田城を攻めて遠山一族を滅亡に追い込んだのです (※注1) 。
初代 遠山遠江守景広
また、遠山騒動に関しては、次のようなエピソードも伝わっています。
遠山様の石子詰
土佐守景直の弟で木沢に住んでいた遠山新助景道は、弓矢で鍬8枚を突き通すほどの強力で、また面白半分に観音堂を大鉄砲で撃ち壊すほどの狼藉者でした。
病弱な加兵衛景重に代わって江戸に参勤していた新助は、遠山一族断絶の知らせを聞き、元和8年(1622)、帰郷するために大河原にさしかかりました。
農民たちは道筋で新助を待ち伏せし、崖から石を落とし、竹槍で突いて殺してしまいました。
その後新助の怨霊が祟りをなしたために、大河原と鹿塩ではその霊を遠山八幡社として祀るようになりました。
- 遠山八幡社のある松香寺
- 霜月祭りに登場する遠山様の面
このように、遠山一族は村人の誇りや敬愛の対象であると同時に、畏怖の対象でもあったのです。
現在に伝わる遠山霜月祭りは、このとき滅んだ遠山一族の霊を慰めるために始められたという言い伝えもあり、そのために 霜月祭り には「死霊祭り」の別名があるほどです。
こうした伝承は、遠山氏に対する村民の複雑な意識の表れなのかもしれません。
このように機略にあふれた土佐守は領民にも親しまれ、現在でも地元で「遠山様」といえばこの土佐守をさすほどです。
土佐守は大阪冬の陣、夏の陣にも出陣して功をあげ、元和元年(1615)に和田城にて没しました。
遠山氏にまつわる伝説
スリド
和田から東南に向かい、梶谷に通じる山道を登りつめた高町という場所に小さな祠があります。かつてここには鏡が祀られていたそうです。遠山氏が没落するときにその愛妾が逃げてきて、この峠で郷民に殺されたのだといいます。
千人塚
和田尾の島にあった塚で、もとは遠山氏の御仕置場だったと伝えられていますが、現在では失われています。
狼煙台跡
八重河内尾野島八幡社の東南の山腹にささやかな平地があります。ここはかつて遠山氏の狼煙台があった場所と伝えられています。
便ヶ島(たよりがしま)
木沢の上島トンネルから本谷川(遠山川の本流)に沿って車で1時間ほど遡ると、聖岳登山口の駐車場があります。ここを便ヶ島と呼んでいます。
遠山氏が滅びたとき、土佐守の奥方は12人の侍女とともに落ち延び、道に迷ったあげくにこの場所にたどり着きました。奥方が、城や親しい人たちの身の上を案じて何度も手紙をしたためたことから、便ヶ島の名がつきました。
また一説には、遠山氏の姫君がここに落ち延び、かねてより恋仲だった若侍の安否を尋ねて、恋の便りを幾度となく侍者に託したのだともいわれています。
また、この場所は農民たちが一揆のための密議を凝らした場所で、一揆に加わる者たちの名を石に刻みこんだともいわれています。けれどその石がどこにあるのかは定かでありません。
- 便ヶ島(現在ではキャンプ場)
待合(まちや)
便ヶ島の手前、須沢集落にある地名で、農民たちは便ヶ島へ密議に向かう途中、この場所で待ち合わせたのだといいます。 また、遠山氏滅亡の際、農民たちが落人を待ち伏せしたのだともいわれます。
河合
木沢にある地名。この地に逃れてきた遠山土佐守の姫君を村の者(木下家)が助け、狭い忌部屋にかくまいました。
隠れている間、姫君は藤糸をつむぎました。
かくまわれて七日目、姫は 「一揆も大分鎮まったようなので、これから美濃苗木の親戚の許に行こうと思います。ついては、この藤糸をせめてものお礼といたします。また、この家の女性は代々美人になるでしょう」 と言い、名残を惜しみながら立ち去ったということです。
御園の愛宕様
木沢八幡社の裏手に小さな祠があります。遠山氏の若殿が農民に殺され、従者がその遺骸を具足、刀などとともにこの場所に埋葬し、手頃な丸石を墓標として立ち去りました。
土地の主がその上に祠を東向きに建てて祀ったところ、一夜たってみると祠が南向きに変わっていました。何度直しても祠は南を向いてしまうため、これは遠山様を祀る木沢八幡社を慕って向きを変えるのだろうといわれるようになりました。
- 御園の愛宕様
遠山様の踏み石
木沢の百体庚申のそばにあります。遠山新助景道がこの場所から北方の居城、中根城に向かって弓を試し、そのとき足をかけた石に沓跡が残ったといわれています。
二升四合升
遠山郷のいくつかの旧家には、二升四合も入るという大きな升が残されています (※注2) 遠山氏はこの升を一升として年貢を取りたてたため、農民の怒りを招いたと伝えられています。その真偽はさておき、遠山独自の規格の升が存在することは、遠山氏が地域色に富んだ民政を施していた証拠とも考えられます。
的場(上村)
上村の風折集落の西に、上村川を見下ろす平地があります。ここは土佐守が江戸往復の途中、弓を引いた的場の跡だと伝えられています。
殿原神社(上村)
上村下中郷の東方の山中にあって、戦死した遠山氏の落武者を祀っています。そばに一杯水という清水があり、土佐守がこの場所で「水が欲しい」と言って木の枝を突くと、たちまち水が湧き出したと伝えられています。
足神(泰阜村)
泰阜村田本にある祠。遠山氏没落の際、奥方がこの地まで落ち延びてきて、足を傷めました。
哀れんだ村人が介抱してやると、奥方は喜んで 「今後足を病む者がいれば、必ず治して進ぜましょう」 と言い残して立ち去りました。
この祠に参れば、足にまつわる病気全てに霊験があるといわれています。
切石(継石塔)(泰阜村)
泰阜村温田にある石。遠山氏の落人がこの場所で追手と斬り合いをし、そのときに石に切りつけたといわれています。落人はその場で命を落とし、村人が供養のために石塔を建立しました。
白諏神社の名剣(松川町)
松川町生田の峠集落には、村社白諏神社に「青蛇丸(あおろじまる)」という名剣が伝えられています。
『生田村史』によれば、昔、遠山土佐守藤原友徳なる武将がこの神社に参詣し、社前の霊水を頂いて休んでいると、急に天が曇り、雷光雷鳴とともに豪雨が降ってきました。そして木の枝に掛けておいた刀が二匹の蛇と化し、友徳を睨みました。
友徳は、これは部下が霊水を汚した神の怒りに違いないと覚り、部下に社前で陳謝させたところ、雨はやんで蛇も元の刀に戻りました。
友徳はあらためて社前に詣で、武運長久と自家の繁栄を祈願して件の刀二振を神社に奉納したということです。
この神社がある峠集落は、大河原で石子詰の難を逃れた遠山氏の落人が唐沢姓を名乗って切り開いた土地だといわれています。
姫宮(上伊那郡中川村)
中川村葛島には大きな5本の杉に囲まれた祠があり、姫宮と呼ばれています。遠山氏没落の際、姫君がこの地まで逃れてきて亡くなったのを祀ったものといわれています。昭和初めまでは、祠の中に数枚の鏡や古銭が納められていたそうです。
守屋家の壷(静岡県水窪町)
水窪町草木の守屋家には、遠山氏ゆかりの品々が多く伝えられています。
遠山氏没落の際、土佐守の奥方の小高姫は二人の家臣を連れて兵越峠を抜け、草木の守屋家に身を寄せたままこの世を去りました。
このとき奥方が持参したのは、素焼の壷(前述)、轡、刀、火縄銃、鏡などでした。
壷には「山王七社内 承元二年六月」と刻まれていることから、これは遠山氏が鎌倉から持ち伝えた家伝の神器ではないかと想像されます。
竜の玉(静岡県水窪町)
水窪町向市場の善往寺に伝えられている大小二つの石。この玉を天に捧げて祈ると、晴天時ならば曇り、雨天時ならば晴れるといいます。
これはもと遠山土佐守が祀る宝で、その子孫である桐山家が寺に寄進したものであると伝えられています。
石の霊験はともかく、その石質が遠山地方に産出するものであることから、この地方と遠山氏との関係を語るひとつの資料であることは確かなようです。
二本杉(静岡県佐久間町)
家康に謁見した土佐守が本国に帰る途中、峠で昼食をとりました。そのとき持っていた箸を地に突き立て、戯れに箸に向かって 「我が立身するか、汝が立身するか」 と問いかけて立ち去りました。
その後ほどなく土佐守は世を去って一族も滅びましたが、一方の箸は根を張り、枝を広げて二本の杉の大木になりました。
この二本杉は明治元年に伐採されましたが、あまりに大きいために根元から切り倒すことができず、足場を作って梢から順に切り取らなければならないほどだったということです。
※1…天龍村に伝わる伝承では、折立長老の直訴は事前に遠山氏に漏れ、長老は殺されてしまいました。そのことが郷民の怒りを爆発させ、一揆につながったともいわれています。
※2…実際に入る量は二升二合弱らしいです。
●遠山氏に関するリンク集
戦国武鑑 戦国武将の家紋とその系図を詳しくまとめたサイト。遠山氏についても載っています。
●参考文献
『遠山氏史蹟』 市村咸人著
『南信濃村史 遠山』 昭和51年 南信濃村史編纂委員会編 南信濃村発行
『遠山風土記』 平成14年 遠山信一郎著 南信濃村教育委員会発行
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