遠山川は、兎岳や聖岳など2,500~3,000m級の山々を水源とし、標高300m付近で天竜川に注ぎ込みます。そのたぐいまれな標高差と降水量の多さから、谷は大きく侵食され、独特の急峻な地形が生まれました。
こうした環境に育まれた魚たちは、その逞しさで全国の釣りファンを魅了してきました。 と同時に、この川は急流ゆえに水力発電の動力源として注目され、また砂防ダムの建設も避けて通ることはできなかったのです。
環境保護、防災問題、観光利用、産業振興、そして戦争の傷跡。遠山川は、様々な過去と課題を秘めながら、今日も谷を潤し続けています。
遠山川に棲む魚たち



アマゴ
脇腹の赤い斑点が特徴で、遠山川を代表する渓流魚です。イワナと比べて活動的で、華やかな泳ぎぶりが特徴です。
遠山川に棲息する尺アマゴは、渓流の名川「遠山川」の名を不動のものにしています。
イワナ
木陰や暗い淵にひそみ、流れてくる獲物はカエルでもネズミでも狙います。淵の深さに比例して大きくなるといわれ、はらわたを抜いてもなかなか死なない生命力を持っています。
本来、遠山川に棲むのはヤマトイワナで、東北や日本海側に棲むニッコウイワナとは異なる種類ですが、中間的な姿を持つ個体も多く見られます。
カジカ
鹿肉のように美味なため、その名がついたとも言われます。水のきれいな瀬に棲み、川底にあわせて体色を変化させ、敵の目をくらませます。
かつてはたくさん棲息していましたが、現在は減少傾向にある貴重な魚です。
遠山川災害史
遠山川は「四年に一度は大水害」と言われるほど、災害の多い川です。
江戸時代からの記録をみても、遠山谷の人々が度々水害に襲われ、それでも土地を捨てずに堤防工事などをおこなってきた歴史がしのばれます。
治水工事は昔も今も、重要な公共事業の一つとして、文字通り住民の生活を支えてきたのです。
流されては造り、造っては流され、という水害と工事の繰返しを一体幾度体験してきたことであろうか。
それゆえに、ときには、経済的に苦しさが手伝うと、「また台風が来ないかなあ!」と一種冗談まじりの、しかしせつない心情を村人に吐露させるほど慢性化したイメージを与えるほどであった。
(『南信濃村史 遠山』p218)
採石問題
昭和30年代、高度経済成長による家屋新築ラッシュで、遠山川は庭石の山地として注目されるようになりました。赤石山系から流れ下るラジオラリヤ板岩、つまり「赤石」が人気となり、それを遠山川河岸から採集する業者が現れたのです。
採石は昭和34~35年頃から始まり、その後10年の間に河岸のめぼしい石はほとんど採り尽くされたと言われます。 地元有志で作る「あらくさ会」は、こうした採石の現状をレポートし、このまま採石が続けば渓谷美が失われ魚族の住処が奪われ、防災の面でも悪影響を及ぼす危険性があることを指摘しました。
その後、業者と村との話し合いで自主的な採石禁止区域が設けられましたが、不法採石が後を絶たず、村当局は既存の河川の石にナンバーを記すなどの対抗策を講じました。
渓谷美が遠山の重要な観光資源であることをはっきりと示した「あらくさ会」のレポートは、現在に通じる課題を浮き彫りにしています。



飯島発電所
南信濃村の地下には、木沢梨本から南和田飯島まで、延長16kmに及ぶ巨大なトンネルが横たわっています。
これは、梨本堰堤で取水した遠山川の水を、南和田にある飯島発電所に送るための導水トンネルです。
昭和18年、第二次世界大戦のさなか。 日本発送電株式会社 (※注1) は、政府から緊急の電源開発を命じられ、翌19年に飯島発電所の建設工事に着手しました。同年に来村した作業員1500名の中には、朝鮮半島や中国大陸で徴用された労働者が多く含まれていました。彼らの給料は日本人労働者の半分にも満たず、監視つきの小屋で寝泊りをしながら、過酷な労働を強いられたといいます。
同じ時期に建設が進んでいた下流の平岡ダムでも、同様の状況でした。満島には捕虜収容所や飯場が立ち並び、建設中の事故や病気で多くの外国人労働者や連合国捕虜が命を落としました。
飯島発電所は終戦後の昭和22年に完成し、現在でも最大認可出力12,700kwで発電をおこなっています。
遠山川での電力事業は、水利権の補償金や村税として、南信濃村の経済と切っても切り離せない存在です。
平成3年に北又渡発電所が完成したこともあり、現在の村税収入の半分以上は、中部電力からのものです。 (執筆当時)
自然環境をめぐって、脱ダム論議が盛んになっている現在。その一方でわたしたちの生活が、外国人労働者たちの過酷な犠牲の上に成り立っている事実も、忘れてはならないことなのではないでしょうか。
当観光協会HP、2016年6月に投稿された記事を元に作成しています。