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此田神楽のルーツ「伊勢太神楽」

神宮セールスマンの営業戦略

 此田神楽は、伊勢太神楽の系統を引いているといわれます。
 では、太神楽とはいったいどんな神楽なのでしょうか。

 伊勢太神楽を全国に広めたのは、伊勢神宮の御師と呼ばれる人々です。
 御師とは全国各地を回って神札を配り、また代参の手助けなどをして奉納金を得る下級神職のことで、ひらたく言えば神社の営業マンといったところでしょうか。
 伊勢神宮では、鎌倉時代以降から多くの御師たちが活躍し、その結果江戸時代になるとお伊勢参りが大流行しました。

 伊勢の御師たちは、はじめは信者のために神楽や湯立による祈祷を行っていましたが、やがて彼らの中から獅子舞 (※注1) を演じて檀那場(毎年の得意先)を回る人々が現れました。これが、伊勢太神楽のはじまりです。

 太神楽は「大神楽」とも「代神楽」とも表記され、その語源は伊勢に直接参拝する代わりだからとも、大神宮神楽の省略であるとも言われています。
 やがて神楽師たちは、獅子舞に加えて“放下”と呼ばれる曲芸を織り込むようになりました。「綾採の曲」「手まりの曲」「傘の曲」などの巧みな技で人々を喜ばせ、初穂料のアップと顧客の新規開拓を図ったのです。

今も残る太神楽の伝統

 伊勢大神楽の本拠は、三重県桑名郡太夫村(現桑名市太夫)と三重郡東安倉川村(現四日市市東阿倉川)の二ヶ所です。
 太夫という地名はまさしく、住民のほとんどが太神楽の太夫を生業としていたことに由来するといわれ、現在でも太夫に5組、東安倉には1組の太神楽の組があり、西日本を中心に回壇(巡業)を行っています。

 こうした伊勢太神楽の一派が江戸に定着し、江戸太神楽として広まりました。江戸太神楽の中には、伊勢神宮ではなく熱田神宮や尾張津島神社の神札を配る人々もおり、「熱田派」「尾張派」などと呼ばれていました。

 第二次大戦の惨禍とその後の都市化によって、江戸太神楽は檀那場をなくし、現在ではもっぱら寄席を活躍の舞台としています。
  「おめでとうございます」 「いつもより余計に回っております」 でおなじみの傘回し芸も、元を辿れば伊勢の御師に行き着くのです。

此田神楽の言い伝え

 明治時代になると、御師制度は廃止されました。以降、伊勢太神楽も他の伝統芸能と同じく、後継者不足による組の解散や檀那場の縮小を余儀なくされていきました。

 けれど回壇がなくなった地域でも、地元の人たちが太神楽を習い覚え、芸能を今に伝えているところがあります。そうして生き残った太神楽の一つが、此田神楽なのです。

 村史『遠山』には、此田神楽の由来について、次のような伝承が記されています。

 此田に獅子舞がある。これは明治の初期に遠州水窪の佐太郎という人が此田へ養子として入ってきた。この人が愛知県小坂井村に参った時にこの地に伝わる小坂井かぐらの舞を習得して帰りこれを村の若い衆に伝授したのが始まりである。

 その一方で地元では、此田神楽には三百年の歴史があるとも伝えています。
 伝承の真偽はさておき、いずれにせよ太神楽の獅子舞は、遠山の人たちにとっても大切な祈りの機会であり、また待ち遠しい娯楽の機会でもあったのです。

●太神楽関連サイト
伊勢大神楽渋谷章社中
今に生きる、昔ながらの伊勢太神楽の姿が、美しい写真とともに紹介されています。
江戸太神楽オフィシャルサイト
江戸太神楽の鏡味小仙社中のサイト。
太神楽曲芸協会
江戸太神楽、水戸太神楽などの芸人さんらで組織する協会のオフィシャルサイトです。
見世物広場
「太神楽曲芸について」のコーナーに、太神楽の歴史が詳しく紹介されています。
●参考文献
『別冊太陽 お神楽』 2001 平凡社
「祭と神楽」 本田安次 (『日本の古典芸能1 神楽』 1969 平凡社 所収)
「里の神楽」 柴田実 (同上)